【社会】「今もペンを持ったおまわりさんだらけ」 袴田さん冤罪に加担したマスコミ…でも変わらない事件報道
【社会】「今もペンを持ったおまわりさんだらけ」 袴田さん冤罪に加担したマスコミ…でも変わらない事件報道
1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で、死刑囚として服役した袴田巌さんの無罪が裁判のやり直しで確定した。それを受け、新聞社の中には袴田さんを犯罪者扱いした当時の報道についておわびする動きが出た。
「同じことはまた起きるだろう」。そう話す元新聞記者で東京都市大学教授の高田昌幸さんに、今も変わらないマスメディアの根本的な問題を聞いた。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●袴田さん逮捕時報道、否認するほど悪いイメージ
<従業員袴田を任意同行>
<“袴田の犯行”に自信>
<落ち着き払った袴田 終始、えがおさえ浮かべ>
事件から約1カ月半が経った1966年8月18日、静岡新聞・夕刊の社会面にはこうした見出しがおどった。まだ逮捕すらされていない段階だが、袴田さんの顔が写った写真が載り、遺族の話を掲載した記事には「“袴田に裏切られた”」との見出しが付けられている。
紙面の左すみに「犯人は他にいる」という見出しで袴田さん本人への一問一答が掲載されているものの、全体として袴田さんが犯人であることを前提とした紙面作りだ。
他の新聞社も同様だった。同じ日の朝日新聞・夕刊は、「従業員の袴田取調べ」という見出しで「事件後の袴田はふだんとまったく変わらず、十八日朝、任意出頭を求められた時も終始にこやかな表情。清水署に連行されてからも笑顔さえうかべていた」と書いている。
袴田さんは最初から関与を否定していたが、当時の新聞を見返すと、袴田さんが否認を貫けば貫くほど逆に「犯人なのに犯行を認めない悪い人」というイメージを読者に植え付けるような書かれ方になっている印象を受ける。
袴田さんだけに限らず、当時の新聞は逮捕された被疑者を呼び捨てにしたり「精神異常男」と書いたりするなど、今の時代から見ると人権無視の驚くべき記事が紙面を埋めていた。
時代や刑事司法の違いなどを抜きに58年前の報道を批判するのは簡単だが、袴田さんのような報道被害を二度と生まないためにはどうすればよいのか。
●再審無罪で報道各社おわび「捜査を疑う視点が欠けていた」
再審で袴田さんに無罪が言い渡されて以降、複数の新聞社が過去の報道を検証する記事を掲載した。
袴田さんが逮捕される約1カ月前に「従業員『H』浮かぶ」と報じるなど、当時の特ダネ競争を牽引したとされる毎日新聞は今年9月27日の朝刊に以下のようなおわびを出した。
<なぜ、このような報道を続けたのか。事件から半世紀が経過し、当時の編集局幹部に確認することはできませんが、時代背景が異なっていたこともあり、逮捕された容疑者の人権に配慮する意識が希薄でした。名前も呼び捨てにしていました。更に捜査当局への社会的信頼が厚く、捜査に問題があるかどうかを疑う視点が欠けていました>
静岡新聞は検事総長が控訴断念を表明したことを受けてこう説明した。
<事件当時、袴田さんを犯人視する報道を続け、結果的に読者、静岡県民を誤導したと言わざるを得ません>
朝日新聞もおわびを掲載し、次のように振り返った。
<事件報道は世の中の関心に応え、より安全な社会を作っていくために必要だと考えています。ただ、発生や逮捕の時点では情報が少なく、捜査当局の情報に偏りがちです。これまでにも捜査側の情報に依存して事実関係を誤り、人権を傷つけた苦い経験があります。
こうした反省に立ち、朝日新聞は80年代から事件報道の見直しを進めてきました。推定無罪の原則を念頭に、捜査当局の情報を断定的に報じない▽容疑者、弁護側の主張をできるだけ対等に報じる▽否認している場合は目立つよう伝えるなどと社内指針で取り決めています>
●高田さん「当時の取材プロセスを検証すべき」
こうした各社の振り返り記事について、元北海道新聞の記者で、現在は調査報道グループ「フロントラインプレス」代表として取材チームを率いる高田昌幸・東京都市大学教授は次のように指摘する。
「袴田さんの事件では、警察からの一方的な情報に基づいて、犯人視報道を延々と続けたわけです。当時の編集局幹部や担当記者は具体的にどう取材して、どんな指示を出して、どんな編集をしていたのか。各新聞社は、自社の先輩たちに取材し、当時の取材プロセスをきちんと検証すべきです。
今回、全ての報道をチェックしたわけではありませんが、具体的な取材プロセスに踏み込んで過去を検証したものは見当たりません。袴田さんのような冤罪事件はまた起きると思いますし、今も起きているかもしれない。
そんななかで、メディアが当時と同じように警察からの一方的な情報に基づく報道を続ければ、報道は再び間違ってしまうでしょう。袴田事件の報道は警察の広報に過ぎなかったわけですし、報道の責任は大きい。警察に寄りかかって事件報道を続けていると、また冤罪に加担するかもしれません」
●「事件は売れる」 今も警察取材に重点を置くマスコミ
高田さんがそう考える理由の一つに、新聞やテレビといったマスコミの取材体制が以前から大きく変化していないことがある。
報道各社は省庁や全国の都道府県庁などの記者クラブに記者を配置しているが、とくに多くの記者を置いているのが警視庁や道府県警察などの「警察記者クラブ」だ。
そこの記者たちは警察担当、いわゆる「サツ担」と呼ばれ、事件・事故を日々取材して原稿を書く。全国的に記者の数が減る中、警察は今も各社が重点を置く取材対象となっている。
日本では刑法犯の認知件数が減少を続けている。犯罪白書によると、袴田さんが逮捕された1966年の殺人の認知件数は2198件だったが、2022年は853件にまで減少した。そうした実態があるにもかかわらず、外勤記者に占める警察担当記者の割合はあまり縮小していないとされる。
しかもネット時代になり、事件ニュースはPV(ページビュー、記事の閲覧数)を稼ぐコンテンツとして重宝される。つまり、「事件は売れる」ということだ。高田さんによると、情報を警察に依拠する事件報道は、数も扱いも目立ってきているという。
●警察情報だけで成り立つ構造的欠陥が放置されたまま
別の問題もある。
大手の新聞社やテレビ局の場合、拠点都市では、警察、検察、裁判所ごとに担当する記者が異なる場合が多い。そのため、同じ事件でも発生から逮捕、起訴、公判、判決(場合によっては受刑・出所後も)という一連のプロセスを一貫して取材する仕組みになっていない。
端的に言えば、逮捕時と裁判を違う記者が取材している現状がある。警察担当の「逮捕」報道は、いわば書きっぱなし。その点も高田さんは問題視している。
「本来、記者の役割は警察の捜査が適正に行われているかをチェックすることが第一ではないでしょうか。しかし現実は、犯行の動機や態様など細々した捜査情報を競って入手し、捜査員と二人三脚で犯人探しをするような報道を続けています。ペンを持ったおまわりさんと言われるのも納得の世界になっている。
袴田さんの事件が起きた1960年代から、この基本構造は変わっていません。容疑者側の言い分を取材できない状況下で、警察側のリークや発表に基づいて集中豪雨的に報道する。つまり、片方の言い分だけで報道が成り立っているという構造的な欠陥も長年放置されたままです」
●記者クラブは本来「捜査の問題に目を光らせる拠点」
袴田さんが逮捕された後の1966年9月12日の朝刊で静岡新聞は、事件の取材にあたった記者たちによる座談会の内容を大きな記事で紹介している。そこでは、捜査情報をつかむため警察を必死に追いかけ回る取材の一端が明かされている。
<捜査主脳部が夜おそく帰宅する前に自宅付近に待機して、情報をさぐったり、早朝の奇襲はほとんど毎日のようだった>
<本社からは目新しいニュースをとの矢の催促‥‥‥。しかし一線の取材は警察のひたかくしにあってキリキリ舞い。事件記者の苦心を骨のズイまで知らされたのがこの事件だった>
捜査情報を聞き出したり独自取材で得た情報の裏取りをしたりするために、記者は早朝や夜遅くに捜査関係者の自宅や通勤路を訪れることがよくある。こうした取材手法は内部で「朝駆(あさが)け」「夜討(よう)ち」と呼ばれ、今も普通に行われている。
高田さんは「夜討ち朝駆け」という取材方法や記者クラブの存在自体を必ずしも全否定しないが、実際に記者が社会から求められている役割を果たせていないことに危機感を抱いている。
「捜査の途中でおかしいと思うことがあれば、記者は報じる。捜査が適法、適正に行われているかどうか。そこに目を光らせるのが警察担当記者の役割であり、その情報を取りに行く拠点として記者クラブはあるはずです。しかし、実態はそうなっていません。担当記者は警察に寄りかかって二人三脚を崩さず、壮大な広報係になっています。」
●事件はコスパがいい 「今もペンを持ったおまわりさんだらけ」
今世間を騒がせている連続強盗事件やそれに連なる闇バイトのニュースでは、犯行グループが使っていたあだ名や被疑者の供述などが毎日のように大きく取り上げられている。
その一方で、鹿児島県警の元幹部による告発や広島県警の不正経理事件、北海道旭川市の女子高生殺害事件で逮捕された女性と捜査担当刑事の不倫疑惑など、警察担当記者が本来追及すべき事案では、報道に消極的だったり週刊誌やネットメディアに遅れをとったりしている。
要するに、新聞・テレビ各社による記者クラブ・メディアには、警察と真正面から対峙する報道がほとんどないのだ。
高田さんは、地球温暖化や過労死など深刻な社会問題は他にたくさんあるにもかかわらず報じられることが少ない現状があると言及した上で、次のように話した。
「かつてと比べ、殺人事件などの凶悪事件の数は大きく減りました。個別の事件が大きく報じられはするけれど、日本社会の治安は良好です。一方で少子高齢化、過疎化、環境問題、防災などの分野で問題は山積み。過労死や賃金未払い問題など人の生き死に関わる問題も後を絶ちません。
それなのに、世の中がこんなに変わってきているのに、社内の取材体制や仕組みを変えられない。組織自体が古びて官僚的、保守的、事なかれ主義に陥ってしまい、世の中が求めることに対応できなくなっています。こんなにも多くの記者を警察に張り付かせているのは、日本くらいではないでしょうか。
PVや視聴率を稼ぎやすいという意味でも、事件はメディアにとって日々の紙面作り・番組作りのコストパフォーマンスがいい。だから、旧来型の事件報道を手放せなくなっているのかもしれません。今もペンを持ったおまわりさんだらけです」
●「記者個人の行動が問われている」
ではどうすればよいのか。
「まずは、現場の記者たちが『そんな取材はやりません』というしかありません。その代わり、仕事はサボらずに一生懸命する。社会で何が必要とされているかを吟味し、それぞれのテーマを取材していく。それで左遷されたら?
死ぬわけじゃないし、そんなことを考えていたら何もできません。実際、冤罪に手を貸した形になっている記者の中には『当時はそれが普通だった』『会社組織だし、上司がやれと言った取材をやるしかなかった』などと言って、それっきりというケースも少なくありません。組織の論理の中に逃げ込んでしまうわけです。それが一番たちが悪い。
もちろん、組織ですから上が変わらないと、組織は変わらない。しかし、上層部のせいにして、組織の中に潜り込んでいくのは、実にかっこ悪い。何をどう取材するかの一義的な判断は、現場記者にあるはずです。取材が公共的な仕事である以上、なおさら、個人としての行動も問われると思います」