【社会】いまだに全壊した家があちこちに放置され…能登半島地震から1年、被災地でみた過酷すぎる冬
【社会】いまだに全壊した家があちこちに放置され…能登半島地震から1年、被災地でみた過酷すぎる冬
能登半島地震から1年が経過した。厳しい地理条件や人口減少などにより、一部では「復興ができない」と言われる被災地であるが、実際にはどのような状況なのか。震災から2年目の冬を迎える現地を直撃した。
◆地域住民も翻弄される、厳しい天候と交通事情
「石川県民でも、なかなか被災地には辿り着けない。復興は難しいと思うね」
金沢市の住民はこのように話した。’24年1月1日に発生した能登半島地震では、能登7市町(七尾市、輪島市、珠洲市、羽咋市、志賀町、穴水町、能登町)が大きな被害を受け、最大24地区が孤立状態に陥った。
さらに、9月に起きた豪雨が追い打ちをかけた。県内全域で崖崩れなどが相次ぎ、ライフラインや交通インフラの復旧を妨げているのだ。
取材陣はまず、石川県内で家屋被害が最多となった輪島市を目指した。この日の最低気温はマイナス1℃。海から強風が吹きつけ、防寒着を着ても底冷えが厳しい。
市内には倒壊した家屋群が残り、海沿いの道は隆起して大きく段差ができているなど震災の爪痕が窺えた。
◆一次産業や観光産業の復活の鍵を握る“朝市”
同市では、平安時代に発祥し日本三大朝市の一つとされる「輪島朝市」が目玉だった。しかし、拠点であった本町通りが焼失し、現在は地元のショッピングモールの一部を借りて活動している。
現在180人以上の組合員がおり、組合長の冨水長毅さんは「もとの場所で復活することが最終目標」と話す。
地権者との調整や建築費用の高騰、保健所の衛生基準などが立ちはだかり復興は難航しているが、それでも全国から集まった支援金をもとに「出張輪島朝市」として県内外の90か所で開催し、一回につき1万3000人以上が訪れたこともあった。
「朝市が復活すれば、一次産業である漁業、農業とそれに付随する観光事業なども活気を取り戻す。そのためにも、火を絶やさないようにするのが’25年の課題です。忘れられないために続けていくしかない」(冨水さん)
◆「もとの家より暮らしやすい」仮設住宅、しかし郷愁は…
市内の仮設住宅を訪ねると、名舟町から夫と息子夫婦の4人で移り住んできたという70代女性Aさんと出会った。
住んでいた母屋が半壊し、避難所を経て3月から少しずつ生活を立て直していたが、豪雨で裏山が土砂崩れを起こし戻れなくなった。家族が無事でいられたことは幸せなのだと自分に言い聞かせているというが、郷愁の思いも覗かせる。
「田んぼは全部だめになったけど、畑は残っているから暖かくなったらまた仕事をしたい。土砂崩れの心配がなくなってから息子の家に戻るのが理想やね」(Aさん)
自宅が全壊し、夫と母親の3人で入居した70代女性Bさんは、「もといた家よりよほど暮らしやすい」と話す。
「復興について遅いか早いかなんて判断できない。進んでいればそれでいいと思う」
なお震災時は、防災の備えが役立ったという。
「いずれ大地震が来るとは思ってた。震災の前年6月に震度5が来たときに確信したので、リュックに貴重品と非常食を詰めて目につくところに置いてた。すぐに持ち出せたのでよかったね」(Bさん)
◆能登7市町の半分の地区で「65歳以上人口が5割超」
1910年に創業し、輪島を代表する和菓子製造会社「柚餅子総本家中浦屋」は、市内の工場と店舗3軒が壊滅的な被害に遭った。
現在、補助金を申請しつつ工場の再建を目指しているが、同社社長の中浦政克さんは1年はかかるだろうと見通しを語る。新たな工場を取得するためのクラウドファンディングも実施しているが、問題点も指摘する。
「震災関連のクラウドファンディングが乱立し、競争が激しくなってしまっている。製品を知ってもらいつつ、長い目で寄り添っていただけるとありがたい」と話す。
’20年の国勢調査によると、能登7市町では65歳以上の人の割合が5割を超える地区が49%に上る。また、人口減少率も著しい。
江戸幕府の天領として知られ、重要伝統的建造物群保存地区となっている門前町黒島町と周辺一帯もそのうちの一つだ。
黒釉薬の瓦や板を階段状に重ねた下見板張りの壁などが美しい街並みだったが、今はほとんどの家が全壊または半壊して見る影もない。
◆「やっぱり家がいちばん」でも、ほぼ全員が仮設住宅
ここで生まれ育ったという70代女性Cさんの家は半壊は免れたものの、「要注意」の貼り紙がされている。高台だったため、全壊や死者はなかったが、ほぼ全員が仮設住宅暮らしのようだ。
「水が出なかった3か月間は子供の家に避難してたけど、水道が通じてすぐに戻ってきた。やっぱり家がいちばん落ち着くからね」(Cさん)
2階に通じる階段は、地震で落ちてきた家財道具で塞がれたままの状態だ。
「私と主人だけじゃ片付けるのは無理。正月に子供と孫が来てくれて助かった」(同)
◆修繕のための助成金は「ほんの少しで、ほとんど自腹」
黒島町に隣接する地区に住む70代男性Dさんの自宅は、全体が若干傾いてしまった。
「修繕して住めないことはないが思いきって解体することにした。助成金はほんの少し出るけど、ほとんど自腹だね」
住民のほとんどが高齢のため、家を建て直す人は少ない。
「お金がかかるし、公営団地に移住しようにも県から具体案が出ていないし。子供のところへ行っても気兼ねして、戻ってくる人も多い」(Dさん)
◆「過去の震災の経験が生きていると感じた」
被災地のなかでも能登半島の最奥、珠洲市は最もアクセスが困難で、支援の手が届きにくい地域である。同市で創業75年を誇る「いろは書店」も全壊し、現在は仮店舗で営業をしている。
店主の息子・八木淳成さんが、市内に瓦礫などが多く残っている苦しい事情を話す。
「持ち主が申請しないと国は手をつけられない。半壊以上だと公費解体してもらえますが、全壊判定の家には技術ボランティアしか入れない。地元から離れている人間がそもそも多すぎるので、家主がいない場合もあります」(八木さん)
そんな状況下でも、地元の人たちの生活力溢れる姿には励まされてきたという。
「もともと不便な地域なので、自力で何とかしようとする気質が強いのかな。水もガスもない、でも正月だから食べ物はあったので、震災翌日には焚き火でバーベキューをする家族もいました。また避難所では、全壊していない家の人がホットプレートなどを持ち寄って料理を振る舞ったり。中には、水が出ないからと井戸を掘る人もいましたね」(同)
◆支援物資は続々到着「食べ物に困らなかった」
また、震災発生当時には、「むしろ支援の早さに驚いた」と話す。震災後はすぐに県外の役所の職員が集結し、車のエンジンの修理などの技術ボランティアは地震の翌日から来ていたという。
また、全国からカップラーメンや缶詰などの支援物資が続々と届いたため、この1年間で水を買う必要もなく、食べ物にも困らなかったとか。
「やはり阪神・淡路や東日本、熊本、北海道と、災害発生のたびにマニュアルがアップデートされているような気がしました。今回の能登の経験も、きっと次の被災地のために生かされていくのでしょうね。復興が遅れているという意見もありますが、ネガティブすぎるのも良くないし、人によって受け止め方は違うと思います。でも、行政、警察官、消防署、自衛隊、水道局員、電話会社、ボランティアの皆さんが本当によくしてくれて、日本はこんなにすごい国だったんだと感心しましたね」(同)
過酷な環境下で2度目の冬を迎えた被災地の経験は、災害国に住む我々すべてが教訓にすべきに違いない。
取材・文・撮影/週刊SPA!編集部
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