【社会】皇族の減少に歯止めがかからず次世代男子は1人のみ…皇位継承問題が先送りされ続けてきた背景

【社会】皇族の減少に歯止めがかからず次世代男子は1人のみ…皇位継承問題が先送りされ続けてきた背景

日本の皇族の減少は、今後の皇位継承問題に深刻な影響を及ぼす事態です。次世代の男子が1人しか存在しないという現状は、皇室の伝統や文化を危うくしています。少子化が進む中で、どのようにして皇族を維持し、未来へとつなげていくのか、早急な議論が求められています。

皇位継承問題をめぐる官邸と宮内庁の動きは、これまでどのようなものだったのか。『皇室典範 明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで』(中公新書)を上梓した政治学者の笠原英彦さんは「紀子妃懐妊を経て皇室典範の改正は見送られてきた。親王の誕生によって、多くの国民が皇位継承問題は解決済みと理解したら、それはあまりにも危険」という――。

■皇室典範改正が棚上げされた背景

1990年代後半から宮内庁が取り組んできた皇位継承問題は2005(平成17)年、小泉政権により解決の兆しがみえた。しかし翌06年2月、秋篠宮家の紀子妃懐妊の報に接した小泉首相は、すでに準備されていた皇室典範改正法案の通常国会提出を見送った。

筆者は当時、こうした政治の動きについて見解を問われてこう答えた。今回もしも男子が誕生し、男子による皇位継承が可能になったとして、それで問題はすべて解決されるのだろうか。仮に女子が誕生したら、そのことを確認してから再び改正に向けた準備を開始するのだろうか。やはり皇室典範の改正を、そうした短期的、表面的な位置づけで論じるべきではない――。

同年9月に悠仁親王が誕生し、党内保守派を基盤とする第1次安倍内閣が成立したことから、議論は棚上げされた。しかし次世代に皇族男子が1人誕生したといっても、皇位継承資格を男系男子に限定する限り、安定的な皇位継承を確保することは困難であろう(拙稿「紀子さまご懐妊で、大局を見失うな」『中央公論』2006年4月号)。現在なおも、次世代には依然として、成年を迎えた悠仁親王1人の状況に何ら変わりはない。

せっかくの親王の誕生が、かえって皇位継承の危機を覆い隠しかねない。親王の誕生によって、多くの国民が皇位継承問題は解決済みと理解したら、それはあまりにも危険であろう。象徴天皇制の下で、国民の理解や支持を得ることは大きな比重を占める。皇室制度の改革にも、国民世論の動向が重要な影響をもつようになった。

■「女性宮家の創設」をめざした野田政権

その後、制度改革が進まず、3人の皇族女子が婚姻に伴い皇籍を離脱して、未婚の皇族女子は5人にまで減少した(2024年12月現在)。これまでのところ、皇族の減少に歯止めがかかっていない。このまま対策が講じられることなく手を拱いていれば、さらに皇族女子が減少する事態は避けられない。悠仁親王を支える皇族は払底し、皇位継承や皇室の活動に支障をきたしかねない。

そこで事態を打開しようと立ち上がったのが、民主党政権3番手の野田佳彦内閣にほかならなかった。2011(平成23)年9月に発足した同内閣は、宮内庁から皇族の減少など皇室の抱える諸課題に関する説明を受け、これを重く受け止めた。野田首相は同問題への着手を決断し、早速官邸の事務方に「女性宮家の創設」を検討するよう指示した。

しかし、これに対して自民党保守派や保守系の団体は、女性宮家の創設は女系天皇の誕生につながるとして警戒し、これを牽制する運動を展開した。

野田内閣は内閣の体力を考慮して有識者会議の設置を見送り、有識者ヒアリングを開催して論点整理とパブリックコメントを実施した(拙著『新・皇室論』)。このときは実を結ばなかったが、同氏の熱意は冷めず、今日に至っている。

■「女性・女系天皇」に否定的だった安倍政権

2012(平成24)年末、再び総選挙の結果、第2次安倍内閣が発足すると、またしても皇位継承問題は先送りされた。

安倍首相は経済再生や安保法制を優先し、少子化対策などその他の中長期課題への着手を先送りした。安倍首相はそもそも自民党保守派を基盤としていたため、女性天皇女系天皇に否定的であったことはよく知られていよう。

すでに述べたように、安倍政権がしだいに長期安定化の兆しをみせはじめていた2016年7月、明仁天皇により突然、「生前退位」の意向が示された。これが翌8月にビデオメッセージとして国民に伝えられたのである。

ただ東日本大震災のときのビデオメッセージとは異なり、それは大きな政治性を帯び、天皇の「おことば」が違憲とみなされる危険すらあった。この「平成の玉音放送」とも呼ばれる「おことば」については、すでにその全体像を示したが、いま少しその背景や意義にふれておきたい(拙著『皇室がなくなる日』)。

■天皇が宮内庁に問題提起した「生前退位」

そもそも天皇が内々に「生前退位」の意向を示したのは、いつのことだったのであろうか。筆者は各種の報道から、それは意外に早く2009(平成21)年頃ではなかったかと推測し、政府関係者に尋ねたところ、「まだそこまでは」とはっきりしない返事が返ってきた。

2008(平成20)年の末、天皇は外出先で不調を訴え、直ちに皇居に戻り検査の結果、不整脈と診断された。宮内庁の羽毛田信吾長官は会見で、私見としたうえで天皇の「ご心痛」を指摘、それが「皇統」の問題に起因すると忖度した。長官は、「陛下ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室にかかわるもろもろの問題を憂慮のご様子」とした(同年12月12日毎日新聞)。

その後、「生前退位」の報道やビデオメッセージを機に、天皇周辺の取材が行われ、天皇が初めて「生前退位」(天皇は「譲位」の語を使用)を取り上げたのは、2010(平成22)年7月の参与会議であることがわかった。当時、参与会議のメンバーは、天皇、皇后のほか、羽毛田宮内庁長官、川島裕侍従長、それに3人の宮内庁参与、湯浅利夫前宮内庁長官、栗山尚一元外務事務次官、三谷太一郎東大名誉教授であった(「皇后は退位に反対した」『文藝春秋』2016年10月号)。

■典範改正をめぐる宮内庁と官邸の温度差

席上、天皇が当初「生前退位」の意向を示したとき、皇后以下参与らはこぞってこれに反対し、摂政の設置を進言したとされる。

おそらく天皇は2008年(平成20)末の体調不良を機に、象徴天皇としての務めが果たせなくなる不安から、こうした発言に及んだにちがいない。しかし関係者は、天皇の高齢化に伴い公務を軽減しても、国民の理解は得られるとして、摂政を勧めた。これに対して、天皇は徹頭徹尾、「摂政ではだめ」として一歩も譲らなかったとされる(前掲記事)。

退位については、憲法にも皇室典範にも規定がないため、立法措置を講じる必要があった。こうした天皇の意向を踏まえて、宮内庁首脳は大変難しい官邸との交渉を迫られた。当時、密かに風岡典之長官が官邸に杉田和博官房副長官を訪ねる様子が目撃されていた。

すでに2016(平成28)年以前から、宮内庁と官邸の間でビデオメッセージの製作に向けた協議が進められていたようだ。しかし、その法整備をめぐる調整は思いのほか難航していたようである。そのため、かのNHKによる「生前退位」報道は、宮内庁サイドが痺れを切らしてフライングに至ったのではないかという観測もある。

官邸事務方幹部から、周囲に天皇の頑固さや宮内庁によるリークを示唆する言動が広まっていたという。官邸は早くから摂政の設置も一つの有力な選択肢と考えていたが、宮内庁はあくまで天皇の意向を受け典範の改正をめざした。やはり双方の温度差は大きく、明仁天皇と宮内庁は明らかに安倍官邸と対立関係にあったとみるべきだろう。

■天皇の真意を国民にゆだねた政府

皇室典範を改正して天皇の「生前退位」を制度化するには、その条件として天皇の意思表示が必要か否かを定めねばならない。

しかし、天皇の意思表示によって「生前退位」が実現することになれば、それは憲法に抵触しないのであろうか。

「生前退位」にはこうしたデリケートな側面があり、8月8日のビデオメッセージでも「お気持ちがにじむ」などと婉曲的な表現を工夫することによって、天皇の退位への要望が表明されていた。政府は国民が天皇のビデオメッセージを聞いて、そこから天皇の真意を汲み取り、国民の退位に対する圧倒的支持を受け止める形で法整備を進めようとしたのである。

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笠原 英彦(かさはら・ひでひこ)
政治学者、慶應義塾大学名誉教授
1956年東京都生まれ。1980年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1985年、同大学大学院法学究科博士課程単位取得退学。法学博士。1988~89年、2000~01年、スタンフォード大学(米国)訪問研究員。慶應義塾大学法学部教授を経て、同大学名誉教授。専攻、日本政治史、日本行政史。主な著書に『天皇親政』『歴代天皇総覧 増補版』『明治天皇』(すべて中公新書)、『象徴天皇制と皇位継承』(ちくま新書)、『皇室がなくなる日』(新潮選書)など。

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三笠宮妃百合子さまの「墓所五十日祭の儀」で墓所へ向かわれる秋篠宮家の長男悠仁さま(=2025年1月3日午後、東京都文京区の豊島岡墓地) – 写真=時事通信フォト

(出典 news.nicovideo.jp)

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