【社会】日本最大のスパイ事件を起こし「ソ連の英雄」と呼ばれた…プーチン大統領が憧れる「ロシア伝説のスパイ」の正体
【社会】日本最大のスパイ事件を起こし「ソ連の英雄」と呼ばれた…プーチン大統領が憧れる「ロシア伝説のスパイ」の正体
ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、ドイツ人ジャーナリストとして来日赴任したリヒャルト・ゾルゲが率いるソ連のスパイ組織が太平洋戦争直前の日本国内で諜報活動および謀略活動を行ったとして摘発された事件である。1941年9月から1942年4月にかけその構成員が逮捕された事件…
29キロバイト (4,227 語) – 2024年11月7日 (木) 01:28
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■「私は進むべき道を決めた。スパイになろうと」
「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」
ロシアのプーチン大統領は二〇二〇年十月七日の六十八歳の誕生日に際し、国営タス通信のインタビューで自らの過去に言及してこう告白した。
理由や背景には触れず、この一言だけだったが、プーチンがゾルゲを敬愛していることを公表したのはこの時が初めてだった。
プーチンは二〇〇〇年に出版されたインタビュー形式の回想録『プーチン、自らを語る』でもこう述べていた。
ドイツ語を学び、KGB(旧ソ連国家保安委員会)のスパイとして旧東独に五年間勤務たプーチンは、没頭した柔道を通じて日本の文化、歴史にも造詣が深い。日本で活動したドイツ人のソ連スパイ、ゾルゲに個人的な思い入れがあったようだ。
■ウクライナ侵攻はゾルゲ事件とつながっている?
プーチンは二〇〇〇年に最高指導者に上り詰めると、KGB時代の同僚をクレムリンに招き、最大派閥「シロビキ」を形成した。議会や裁判所、メディア、地方自治体を支配し、大統領の一元支配を確立。エネルギー産業や国策企業を統括し、反体制派を弾圧して異例の長期政権を築いた。
KGBはソ連崩壊時に分割・再編されたが、ロシアの情報活動や能力は拡大しており、フランスの政治学者、エレーヌ・ブランは現代のロシアを「KGB帝国」と呼んだ。
「ウクライナはロシアの一部」とする特異な歴史観を持つプーチンは二二年二月、ウクライナ侵攻に踏み切り、第二次世界大戦後欧州最大の地上戦となった。ウクライナ侵攻は、プーチンが自ら考えて決断し、軍に命じたもので、「プーチンの戦争」といわれる。
プーチンがKGBに入省していなければ、巡り合わせで大統領になることも、ウクライナ侵攻もなかった。「ロシアのウクライナ侵攻は、ゾルゲ事件とつながっていると見ることもできる」(加藤哲郎、「東京新聞」二三年六月三日)。
ゾルゲの存在がプーチンにKGBへの道を歩ませたとすれば、ゾルゲは死後もロシアと世界を揺るがせていることになる。
■学校では「総理」と呼ばれる
ここで、「二十世紀最大のスパイ」といわれるゾルゲの略歴を紹介しておこう。一八九五年、石油業を営む裕福なドイツ人の父とロシア人の母の混血としてアゼルバイジャンのバクー郊外で生まれたゾルゲは、三歳の時、一家でドイツに移った。ベルリンでの少年時代について、ゾルゲはこう回想している。
「富裕なブルジョア階級にみられる平穏な少年時代を過ごした」「運動競技や歴史、文学、哲学、政治学では、クラスの誰よりも抜きんでていた」「時事問題は普通の大人よりもよく知っており、学校では『総理』と呼ばれた」「父は正真正銘の国家主義者だったが、私は政治的な立場はなかった」(獄中手記)
一九一四年に第一次世界大戦が勃発すると、学校生活への嫌気や戦争への興奮からドイツ陸軍に志願し、戦場で三度負傷する。入院中、従軍看護婦とその父の手ほどきで社会主義理論に目覚め、マルクスやエンゲルス、ヘーゲル、カントを読みふけった。
一七年のロシア革命に衝撃を受け、ドイツ共産党に入党する。「ロシア革命は私に国際労働運動の採るべき道を示してくれた。私は理論的、思想的に支持するのではなく、現実にその一部となることを決意した」(獄中手記)
■スパイ時代の盟友は朝日新聞記者
大学院で政治学博士号を得た後、ドイツで活動中、世界革命を目指すコミンテルン(国際共産党)代表団の接待やボディーガード役を務めた。その時、コミンテルン幹部のオシップ・ピャトニツキーらに認められ、本部スタッフとして働くよう勧誘される。
二五年にモスクワに移り、ソ連共産党に入党した。しかし、コミンテルンでは文書仕事ばかりで、革命運動への限界を感じていた矢先の二九年、軍参謀本部情報本部にスカウトされ、三〇年からスパイとして上海支局に赴任する。
三年間の上海勤務では、朝日新聞記者の尾崎秀実や米国人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーらの協力で情報網を築き、中国の軍事情勢や国民党の動向、日本の中国政策に関する情報を入手。中国共産党との連絡役も務めた。
帰国後、モスクワでの研修を経て、三三年九月に東京に着任。ドイツ紙「フランクフルー・ツァイトゥング」の特派員を隠れ蓑に八年間活動した。この間、ドイツ大使館に食い込んでオイゲン・オット大使や武官らと親交を深め、有力な情報源とした。
■日本最大の国際諜報事件だが、謎は多い
東京では、再会した尾崎や仏アバス通信の記者、ブランコ・ブケリッチ、画家で米国共産党員の宮城与徳(よとく)、無線技士のマックス・クラウゼンを中核メンバーにゾルゲ機関を構築。
四一年のドイツ軍のソ連侵攻、日本軍の南進決定というスクープをはじめ、多くの機密情報を無線通信でモスクワに送った。
しかし、日米開戦前の四一年十月、諜報活動を行ったとして全員が逮捕された。検挙されたゾルゲ機関関係者は三十五人に上り、内閣嘱託の西園寺公一、衆院議員の犬養健ら大物もいて、日米開戦を控えた政界を水面下で揺るがせた。裁判で死刑が確定し、逮捕から三年後の四四年十一月七日、ゾルゲと尾崎は処刑された。
ゾルゲ事件は日本最大の国際諜報事件であり、今も国際的関心を呼ぶのは、それが激動の時代を背景にし、政治的、思想的色彩が濃い特殊なスパイ事件だったからだろう。
一方で、ゾルゲ事件は多くの謎や神話に包まれてきた。英国のジャーナリスト、ロバート・ワイマントは、「ゾルゲという近代史上まれにみるスパイの生涯は、数々の仮構と歪曲と捏造に彩られている」と書いた(『ゾルゲ 引裂かれたスパイ』)。しかし、ロシア側の情報開示で、真相に近づくことが可能になった。
■ロシアでは「ソ連邦の英雄」扱い
秘密主義のプーチン体制下でロシアの情報公開は後退したが、情報機関の文書開示は進み、ゾルゲ関係文書の機密も大幅に解除された。そこには、プーチンの思い入れや、旧KGB出身者が中枢を占める政権への関係機関の忖度(そんたく)があるかもしれない。
プーチンは二〇〇〇年に大統領に就任した後、GRUの旧庁舎を訪れた際、セルゲイ・イワノフ国防相らと近くのゾルゲ像に献花したことが知られる。
モスクワのゾルゲ像は、クレムリンから北西約八キロの小さな広場にある。壁から抜け出したゾルゲが両手を外套のポケットに突っ込んで思案する像だ。広場を起点に、「ゾルゲ通り」が北に二、三キロ延びる。
一九六四年にゾルゲが名誉を回復し、「ソ連邦英雄」の称号を受けたのを機に「ゾルゲ通り」と改名された。銅像はゴルバチョフ時代の八五年に設置されたが、建立の決定はその数年前、長年KGB議長を務めたアンドロポフ共産党書記長時代に下されたようだ。
■東京からの電報がソ連軍を優位に進めた
ゾルゲ通りに面したモスクワ第一四一学校は「リハルド・ゾルゲ名称記念学校」と称される。校内に六七年開設の「ゾルゲ博物館」があり、ゾルゲがモスクワで使った椅子など五百点が展示されている。ロシア語では「リヒャルト」が「リハルド」と表記される。
二〇一六年に開通した近くのモスクワ地下鉄外環状線の新駅は「ゾルゲ駅」と命名された。ゾルゲが駅名になったのは初めて。
ゾルゲ通り周辺には、銅像や駅のほか、集合住宅「ゾルゲ9」「リハルト・アパート」があり、二二年に「リハルド・ゾルゲ記念公園」も誕生した。公園内に記念碑が設置される予定で、この界隈はゾルゲ一色となってきた。
近年、ウラジオストクやアストラハン、ブリャンスク、カザンなど多くの都市にゾルゲ像が建立された。
ゾルゲの無線電報は、東京からウラジオストクを中継してモスクワに送られた。一九年にウラジオストクに設置されたゾルゲ像は、地元の退役軍人協会の主導によるもので、除幕式で市長は「日本軍は北進しないとのゾルゲの情報で、極東の赤軍部隊はモスクワ戦線に移動し、独ソ戦の転換点になった」と功績を称えた。
■「最も有名なスパイ」ではプーチンより断然人気
ウクライナ侵攻作戦を進める南部軍管区司令部があるロストフナドヌーでも二三年、ゾルゲ通りやゾルゲ名称記念学校が誕生し、ゾルゲ像の除幕式が行われた。「ゾルゲ通り」はロシアの約五十都市にあるという。
これに対し、ロシア軍の侵略を受けるウクライナでは二三年五月、首都キーウ市議会が市内の「ゾルゲ通り」を廃止。代わりに日本とゆかりのあるウクライナ系詩人の名を取って、「ワシリー・エロシェンコ通り」と改名した。
また、政権の肝入りで建設されたモスクワ西部の広大な「愛国者公園」の博物館で一九年、「傑出した軍事情報将校、リハルド・ゾルゲ展」が半年間にわたって開かれた。
一九年には、国営テレビ「チャンネル1」で、歴史ドラマ「ゾルゲ」(セルゲイ・ギンズブルグ監督)が全十二回で放映された。ゾルゲがロシアで大河ドラマになったのは初めてで、特高警察役や愛人の石井花子役で日本人俳優も動員され、上海ロケが行われた。このドラマは、『スパイを愛した女たちリヒャルト・ゾルゲ』のタイトルで日本でも上映された。
全ロシア世論調査センターが一九年に実施した「最も有名なスパイ」の世論調査では、ゾルゲが一五%でトップ。プーチンは四%で四位だった。
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拓殖大学客員教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。2022年4月から現職(非常勤)。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『独裁者プーチン』(文春新書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミア新書)などがある。
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