【社会】クルド人はなぜ日本に住むようになったのか…「国を持たない最大の民族」の苦悩の歴史

【社会】クルド人はなぜ日本に住むようになったのか…「国を持たない最大の民族」の苦悩の歴史

国を持たないということがどのように彼らのアイデンティティや生活に影響を与えているのか、考えさせられるところがあります。

日本に暮らすクルド人が増えている。一体なぜなのか。ジャーナリストの池上彰さんは「もともとクルド人は『国を持たない最大の民族』と呼ばれており、少数民族として差別を受けてきた。近年はトルコエルドアン大統領が迫害を強めたため、多くのクルド人が国外に逃げ出すようになった」という――。

※本稿は、池上彰歴史で読み解く!世界情勢のきほん 中東編』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■川口市や蕨市に住むクルド人たちのルーツ

埼玉県川口市や蕨市に多くのクルド人が住むようになり、生活習慣の違いや言語が通じないことなどから地元の人たちとの軋轢がニュースになるようになりました。「クルド人は出ていけ」などというヘイトスピーチも目立つようになりました。このうち蕨市はクルド人が多いので「ワラビスタン」などと揶揄されることもあります。

クルド人とは民族名。国籍は多くがトルコです。日本に在留するトルコ国籍の人は約6000人、そのうちの約2000人程度がクルド人と見られています。なぜクルド人が大勢暮らすようになったのでしょうか。そこにはトルコにおけるクルド人の地位が関係しています。

そもそもクルド人とはオスマン帝国時代にクルディスタン(クルド人の土地)と呼ばれていた山岳地域に住んでいたクルド語を話す人々です。オスマン帝国崩壊後、クルディスタンの土地は、そこに住んでいた人たちの意思に関係なくトルコイラクイランなどに分割されました。その結果、この地に住む約3000万人は「国を持たない最大の民族」と呼ばれています。

■独立派はトルコで「テロリスト」扱い

各国に分割されてしまったクルド人たちは、それぞれの国では少数民族となり、「自分たちの国を持ちたい」と行動するため、各国で「分裂主義者」とみなされて弾圧を受けてきました。

それでもイラク北部には「クルド人自治区」が作られ、国家として機能するようになりましたが、トルコでは長らく民族とはみなされず、「山岳トルコ人」と呼ばれて差別を受けてきました。

トルコがEU(欧州連合)加盟を望むようになってからは、EUから「クルド人の存在を認めよ」との圧力を受け、存在が認められるようになりましたが、いまも差別を受け、独立を主張する勢力はトルコ政府から「テロリスト」との扱いを受けています。

このため、先に来日していた親族を頼って多くのトルコ国籍のクルド人が来日、「トルコに帰国すると迫害を受ける」として日本で難民申請しました。当初は入管施設に収容されていましたが、長期間にわたると人権問題になるため、仮放免されている人たちが多いのです。

クルド人たちの迫害の歴史は新生トルコの歴史でもありました。オスマン帝国の歴史から振り返ってみましょう。

■多民族国家・オスマン帝国の栄枯盛衰

オスマン帝国は、かつては学校で「オスマントルコ」と習いましたが、現在の教科書では「オスマン帝国」となっています。この帝国は広大な面積を支配し、トルコ人の国家ではなく多民族国家になっていたという研究の成果です。

イスラム教スンニ派の国家として西アジアばかりでなくバルカン半島から地中海地方の広範囲に領土を広めました。ただし、領土内のユダヤ人キリスト教徒に改宗を強制することはなく、税金を納めれば信教の自由が保障されていたのです。この寛容さが、14世紀から20世紀初頭まで存続できた大きな理由でした。

この帝国は君主であるスルタンがイスラム教スンニ派の指導者カリフムハンマドの後継者)の地位を兼ねる体制をとり、16世紀にはイスラム世界の盟主となりました。

しかし、近代化に後れをとり、第一次世界大戦ドイツと同盟を結んだものの、イギリスフランスに敗れ、1922年に滅亡しました。スルタン制度も廃止され、カリフの存在も1924年に廃止されました。ただ、イスラム世界では、いまもマレーシアのようにスルタン制度を採用している国があります。また、過激派カリフを僭称(せんしょう)する(勝手に名乗る)ことも起きています。

■新生トルコはイスラムからの脱却を図った

第一次世界大戦オスマン帝国を破るためにイギリス三枚舌外交を展開したため、現在の中東の混迷をもたらしたことは、本書の第1章で述べた通りです。

オスマン帝国が滅亡した後、面積は小さくなったものの、新生のトルコ共和国として再建されます。これを指導したのがトルコ軍の英雄だったケマル・アタチュルクでした。

彼はイスラム国家としてアラビア文字を使用していたことが後れをとったと考え、西欧化させるために、トルコ語の表記をラテン文字(いわゆるアルファベット)に変更するという大改革を実施します。

それまで右から左に書くアラビア文字を、左から右に表記するラテン文字に転換させる革命的な表記改革によって、いったんはトルコの国民の大半が文字を読み書きできなくなるという事態に陥りました。

■急激な西欧化に戸惑うトルコ国民

また、彼はイスラム教の政教一致の体制が後れをとった理由と考え、徹底した政教分離を進めます。イスラム教徒の女性はスカーフやヒジャブで髪を隠すのが一般的ですが、公の場で女性が髪を隠すことが禁じられるという徹底ぶりでした。

しかし、急激な西欧化が進むと、貧富の格差が広がり、イスラムへの復帰を求める国民の意識が高まります。かつてイランで起きたのと同じような状況になったのです。

トルコ共和国の建国の父ケマル・アタチュルクは、「トルコはヨーロッパになるべきだ」として西欧化を進めてきました。そのアタチュルクの理想を実現するのがEUへの加盟でした。1999年にEU加盟候補になりましたが、その後、レジェップ・タイイップ・エルドアンが進める急速なイスラム化に懸念を持つEU諸国によって、加盟交渉は進んでいません。

■イスラム化を進めるエルドアンが実権掌握

エルドアンイスラム政党の公正発展党を組織し、2003年の総選挙で政権を掌握すると、夜間のアルコール販売を規制したり、公の場所に妻がスカーフをかぶって登場したりするなどイスラム化を進めます。本来の国是である政教分離をなし崩しにしていきます。それが、保守的なイスラム教徒から支持され、盤石な政治基盤を作り上げるのです。

そもそもトルコ共和国は首相が政治的実権を持ち、大統領は象徴的な国家元首でした。しかし、首相になったエルドアンは、憲法を改正して大統領を政治的実権を持った存在にし、2014年、自らが大統領に就任してしまいます。

彼は、儀仗(ぎじょう)兵(儀礼や式典時などに立ち並ぶ兵士)にオスマン帝国時代の兵装を復活させるなど、かつてのオスマン帝国の栄光よ再びという野心を見せるようになります。

一方、トルコ軍はアタチュルクの教えを堅守し、政教分離の原則を守ることを任務と考えてきました。このためエルドアンが進めるイスラム化に危機感を抱いた軍の一部が、2016年にクーデターを企て、エルドアンの独裁を阻止しようとしますが、失敗。

エルドアンクーデターに関わったとして多数の軍の幹部や公務員を逮捕し、独裁化に反対する人間を一掃。一気に独裁化に拍車をかけます。エルドアンを批判していた報道関係者も多数が獄中に放り込まれました。

■迫害されたクルド人が国外へ逃げ出した

次第に独裁化を強めるエルドアントルコ国内で反発が強まり、2015年にはクルド人組織の「クルディスタン労働者党」(PKK)が独立を求め、トルコ軍と戦闘状態になります。

これ以降、エルドアンはPKKではないクルド人への迫害も強め、多くのクルド人が国外に逃げ出すようになります。ドイツなどヨーロッパに逃げたクルド人が多かったのですが、日本に逃げ込んできた人たちもいるのです。

エルドアン大統領によるイスラム化は続きます。2020年、エルドアン大統領は、博物館として公開されていたイスタンブールのアヤソフィアを宗教施設であるモスクとして使用すると宣言したのです。

アヤソフィアは、東ローマ帝国時代に創建されたキリスト教の本山のひとつでしたが、1453年オスマン帝国に征服されてからモスクに転用されました。

もともとキリスト教の教会だったものが、その後、モスクになったことで、同じ施設の中にキリスト教の宗教画とイスラム教の『コーランクルアーン)』の文字が並ぶというユニークな施設で世界遺産になっています。

オスマン帝国崩壊後に政教分離を進めたケマル・アタチュルクは、1935年モスクとして使用することをやめて博物館にしました。その結果、誰でも観光できる施設になっていました。このような歴史的経緯のあるところを、再びモスクとして使用する決断は世界を驚かせました。モスクとしてイスラム教徒の祈りの場にされましたが、祈りの時間以外は、これまで通りに観光客に公開されています。

■トルコとアメリカの「微妙な関係」

トルコの位置はヨーロッパとアジアの間という絶妙な場所にあります。領土は、ボスポラス海峡にまたがり、西はヨーロッパ、東はアジアに属しています。

国民の大多数はイスラム教徒ながら、親米国家としてアメリカが主導するNATO(北大西洋条約機構)に加盟。アメリカ軍基地を受け入れてきました。東西冷戦時代、ソ連の存在が脅威だったからです。

ところが、トルコとアメリカは、微妙な関係にあります。きっかけは2016年に起きたクーデター事件でした。エルドアン大統領は、「クーデターの黒幕」と主張するアメリカ在住のイスラム組織指導者のフェトフッラー・ギュレン師の引き渡しを要求しました。これに対してアメリカは、十分な証拠がないとして拒否。関係の悪化が始まっていました。

■エルドアン大統領は急速にロシア寄りに…

さらにシリア内戦の対応をめぐっても関係が悪化しました。アメリカはシリア国内のIS(イスラム国)を掃討するため、シリア国内のクルド人民兵勢力に武器を渡して支援をしてきました。その結果、多くのクルド人民兵の犠牲を払ってISを弱体化させることに成功しました。

ところが、このクルド人勢力をトルコエルドアン政権は目の敵にしています。トルコ国内で独立運動をしているクルド人勢力とつながっていると考えているからです。アメリカによるクルド人民兵支援にエルドアン政権は猛烈に反発しました。

さらにエルドアン大統領パレスチナ問題で、同じイスラム教徒であるパレスチナ側を支持。イスラエルを厳しく批判するようになっています。これが、イスラエルと親密な関係にあるアメリカには不愉快なのです。

アメリカという同盟国との関係が悪化すれば、アメリカを牽制するためにアメリカと敵対する国に接近する。これは国際関係ではよくあること。エルドアン政権は、急速にロシア寄りに傾斜しています。ロシアと対立してきたNATOに加盟していながら、ロシアから最新の地対空ミサイル(地上から発射し、航空機などを攻撃するミサイル)を購入することを決めたのです。

一方、トルコは黒海につながるボスポラス海峡を擁することから、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に対して、仲介しようとする動きも見せています。中東の要衝に位置するからこそ、トルコの存在が脚光を浴びているのです。

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池上 彰(いけがみ・あきら)
ジャーナリスト
1950年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、NHK入局。報道記者として事件、災害、教育問題を担当し、94年から「週刊こどもニュース」で活躍。2005年からフリーになり、テレビ出演や書籍執筆など幅広く活躍。現在、名城大学教授・東京工業大学特命教授など。6大学で教える。『池上彰のやさしい経済学』『池上彰の18歳からの教養講座』『これが日本の正体! 池上彰への42の質問』『新聞は考える武器になる  池上流新聞の読み方』『池上彰のこれからの小学生に必要な教養』など著書多数。

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※写真はイメージです – 写真=iStock.com/funky-data

(出典 news.nicovideo.jp)

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