【社会】トンボもメダカもいなくなった…東日本大震災後に誕生した「生き物たちの楽園」は復旧事業で97%が消滅
【社会】トンボもメダカもいなくなった…東日本大震災後に誕生した「生き物たちの楽園」は復旧事業で97%が消滅
※本稿は、養老孟司『日本が心配』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■津波の後の海岸に草原や虫が戻ってきた!
【永幡】東日本大震災後2年目の春になると、植物も虫も、予想をはるかに上回る規模で復活しました。津波以前よりも植物や虫が増えたんです。
仙台平野の海岸には江戸末期から、風で砂が飛散するのを防ぐために、クロマツやアカマツなどが人工的に植えられていましたが、これらが津波とその後の塩害によって枯れたことで、光が地面に届くようになりました。結果、本来あった木々が生長を始め、土中に眠っていた種子が発芽しました。
ズミの花の白、レンゲツツジの朱、砂地を覆うハマエンドウの紫、センダイハギの黄など、マツの造林が行われるよりも前に広がっていた“海岸草原”の姿がよみがえったのです。
もちろん虫も同じです。カワラハンミョウなんて、200m歩く間に80匹も見つかりました。すごい勢いで増えたんですよね。
さらに田畑だった場所では夕方になると、空を埋め尽くすほどの大量のギンヤンマが餌を捕るために、暗くなるまで上空を飛び交っていました。よく戦中から戦後すぐに生まれた方がたから、「昔はギンヤンマが無数にいた」という話を聞いていたんですが、「なるほど、こういう風景だったんだ」と感慨深かったです。
――わずか2年で、そんなに回復するとは……すごい回復力ですね。
■復旧事業でトンボもメダカもいなくなった
【永幡】当たり前と言えば当たり前なんです。人間が堤防や駐車場を造ったり、海水浴場を整備したりして、土地をどんどん使えば、そこはもはや自然環境ではなくなりますから、野生生物のすみかは減ります。それらを巨大津波が根こそぎさらっていったことで、砂浜が元の環境を取り戻したわけです。
堤防がなくなれば、風が通ります。砂浜は内陸のほうまで広がっていきます。もっともそれは、自然の回復力というより、生き物のいる場所が広くなっただけのことです。すみかの面積が広くなれば、生き物の数は必然的に増えます。
――しかし復旧事業が始まって、生き物のすみかがどんどんなくなっていったそうですね。
【永幡】はい。復旧事業が始まると、津波で砂や倒木が重なった土地をブルドーザーが整地していきました。そこにさまざまな動植物が増えていたわけですから、それは言い換えれば、生き物の居場所をどんどん潰していくことになります。
私自身は自然の調査をしたかったのに、人間が復旧事業の名の下にやろうとしていることを傍観できず、それへの対応に多くの時間をつぎ込むことになりました。本来、人間のやろうとすることにはまったく興味がなかったんですが。
先ほど、田畑の跡地に大量のメダカが現れ、空を埋め尽くすほどのギンヤンマが発生していたと述べましたが、排水機場の修理が終わり、一帯の地下水位が50cm下がったら、一帯から水たまりが全て消えたんです。そうすると、トンボもメダカも当然ながら、全部消えてしまいました。震災の3年後ぐらいのことです。
■自然環境を残すため協議を続けた5年間
【永幡】やっぱり、「浜辺の生き物がこんなに増えたのに、復旧事業とともにゼロになってしまうのは忍びない。どこかに少しでも残せないのか」という話はしなくてはいけないと思ったんです。
というのも堤防の建設や人工林の造林、農地の水路の整備などに際して、復旧事業を迅速・円滑に進められるよう、法で定められていた事前の環境アセスメント調査を省略できることになったからです。
そこにどんな自然環境が再生しているのかを誰も知らないまま、いや、津波直後の写真からの「津波で全部流されて、動植物はいなくなった」という思いこみのまま計画が進み、建設が進められようとしていたのです。
そこで、広い砂浜に測量の杭が立ち始めたのを見た時、「堤防を造る前に協議を始めなければ」と、管轄の行政の事務所に行きました。すでに設計も終わり、工事は始まっていましたが、個人で調査を続け、すでに生き物がたくさんいることを知っていた私としては、ともかく残す方法を探りました。
結果的に、複数の省庁や県への申し入れと協議は5年後まで続きました。一民間人の申し入れに、国の機関がきちんと対応してくれるわけですから、対応自体はよかったと思います。
ただ、組織が大きくなればなるほど、個人の裁量の範囲は小さくなりますし、ましてや緊急かつ大規模な工事が同時にいくつも進められるわけです。それぞれの担当だった方の努力と対応には感謝しつつも、最終的にはどれも無難な落としどころに行きつきました。結果として、豊かな自然環境をどのように残すかという本質的な問題には踏み込めませんでした。
■ボスのいう通りに行動して責任をとらない日本人
【養老】誰も考えないし、誰も責任を取らない。「みんなで話をして、みんなで考えましょう。以上、終わり」というやり方でいい。日本人にはそういう考え方が小学校の道徳の授業のときから叩き込まれているんです。結論なんか出やしない。
【永幡】明快なお言葉をいただきました。それが言いたかったんです。
【養老】「みんなで考える」というのはアングロサクソン系の人(英米人)が上手だそうです。評論家の山本七平さんがどこかに「捕虜収容所のなかで何が起こるか」について、英米人と日本人の違いを書いていましてね。英米人はみんなで相談して「君は食料担当」「君は建築関係の担当」と役割分担を決め、あっという間に機能集団ができてくる。
一方、日本人は牢名主が一人出て、子分を二、三人従えて、暴力的に集団を支配するっていうんです。その通りだなと印象深くて、いまでも覚えています。いま横行している闇バイトだって、そんなものでしょ。あんなバイトが流行るのは、日本くらいのものじゃあないでしょうか。
――従属することに、ある意味で快感を覚える?
【養老】そうそう、しかも「ボスの言う通りにやっているだけで、自分は悪くない」という気持ちがどこかにある。だから、誰も責任を取ろうとしないんです。そう考えると、南海トラフにいっそうの恐怖を感じます。日本人は暴力行為に対して、非常に弱いですからね。
■必要なのは事実を正確に伝える生き物調査だった
――ただ、省庁にも“話せる人”はいたようですね。
【永幡】はい。霞が関で行なわれた協議のときに、管理職の方が「自分が責任を取るから、この人たちの言うことを聞きなさい。社会に必要なことなんだから、やらなくてはいけない」と言ってくださったのは大きかった。その省庁に関しては、話が大きく進みました。
――キーマンがいるか、いないかで、ずいぶん違ってきますか?
【永幡】違います。ただ問題は、“人頼み”では限界があるということです。行政では、大体2年、あるいは3年で人事異動があります。人事異動で人が変われば、その組織が同じ対応をするとは限りません。
ですから「人」よりも「組織」が物事をどう判断し、対応していくか――個人に左右されるのではなく、できるだけ普遍性のある「判断する仕組み」をつくる必要があります。
と言いつつも、あれからもう10年以上経って、私としてはかなり記憶が薄れています。正直言って、省庁とのやりとりは生きものと違って普遍性がないので、記録に残したい気持ちもないんですよ。
――そんなことをおっしゃらず……。永幡さんは協議に際してたくさんデータを出されたんですよね? それによって、一部の復旧事業の計画が変更されたと聞いています。その辺りをぜひお聞きしたい。
【永幡】気が進みませんが……。わかりました。申し入れをするに当たって、単に「生き物が大事です」みたいな話をするだけではダメなんです。まず「事業を見直してください」と言うために、「ここにこういう生き物がいます。私が調べました」という正確な情報が必要です。
■第三者が調査・交渉する組織が乏しい日本
そのうえで、「これだけの生き物が消えてしまいます。手続き上は抜かりがないとはいえ、公共事業としてこの現状を無視できないのではありませんか?」と、話を進めていきました。他に独自に調べていた数名の、植物や鳥やカニなどさまざまな浜辺の生き物の調査結果も集約して、図面や表にしました。
欧米だったら、こうした調査や交渉は自然保護団体などのNGOや大学が独立した立場で実施するんですが、日本って第三者的立場から、意見を出して交渉する人や組織がないんです。専門家もNGOもみんな行政の会議に取り込まれるので、誰も外側から進め方に異を唱えない。社会として、健全な議論のあり方とはどのようなものかを考えさせられました。
――大変な時間と労力をかけられたんですね。結果的に、どのくらい手つかずの自然を残せましたか?
【永幡】工事を止めて、自然環境に配慮した形で計画の変更が行なわれたのは、14カ所でした。省庁では一つの計画を進めるにも、現地調査のあとで会議を開き、設計そして着工まで膨大な時間がかかります。私も責任上、それにつき合って、ほぼ5年間を費やしました。
結果として、仙台平野で盛り土をせずに表土が残った場所は、約40kmの海岸線沿いの海岸林のなかで、50~100m程度のものが7カ所。それぞれの行政機関が「自然環境に配慮した」と喧伝していて、公共事業は、失敗はせずにうまくいったこととして発表されます。生き物から自然環境を見ている私としては、配慮しないよりはマシだった、という程度です。
【養老】いや、それでも偉いと思いますよ。
――やって良かったっていう思いはないですか。
【永幡】良かったという思いになれないんです。97%、消えてしまいましたから。たぶん性格が変わってるんでしょうね。人間社会に興味がないので、どれだけ自然が残ったかが全てです。みんなで協力してわずかでも成果を出せた、という過程に全く価値を見出せないんです。集団行動ができない人間なのでしょうね。
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解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)、『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社)など多数。
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自然写真家、著述家
1973年兵庫県生まれ、信州大学大学院農学研究科修了。山形県を拠点に動植物の調査・撮影を行う。ライフワークは世界のブナの森の動植物を調べることと、里山の歴史を読み解くこと。里山の自然環境や文化を次世代に残すことに長年取り組む。『里山危機』『大津波のあとの生きものたち』『巨大津波は生態系をどう変えたか』『クマはなぜ人里に出てきたのか』など多数の著書がある。
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