【社会】坂本弁護士一家の自宅に残されていたオウム真理教のバッジと信者たちの指紋…不肖・宮嶋が見た発生直後の信者たちの“常軌を逸した行動”
【社会】坂本弁護士一家の自宅に残されていたオウム真理教のバッジと信者たちの指紋…不肖・宮嶋が見た発生直後の信者たちの“常軌を逸した行動”
〈《写真多数》防護服に身を包んだ捜査員がサティアンへ突入…地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教に強制捜査が入った瞬間〉から続く
1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生して今年で30年。不肖・宮嶋は事件発生前からオウム真理教の危険性に気が付いていたという。貴重写真と共に地下鉄サリン事件を引き起こす前のオウム真理教の異常性、そして不肖・宮嶋が初めて麻原彰晃を目撃した瞬間を振り返る。(全4回の2回目/♯1、♯3、♯4を読む)
◆◆◆
「麻原彰晃マーチ」で恥ずかしい踊りを繰り返す一団が出現
オウム真理教の異常性に初めて気が付いたのは、36年前当時の6畳一間の拙宅「つつみ荘」の近所であった。最寄り駅の井の頭線浜田山駅前から杉並、渋谷、中野区近辺でけったいな青い象の被り物をした若者らが現れだしたのである。手には「麻原彰晃パフォーマンスやってます」のプラカードを掲げ、もはや雑音でしかない、いわゆる「麻原彰晃マーチ」の調べに乗せて、見ているこっちが赤面してしまうような恥ずかしい踊りを繰り返す一団である。
そのころからしっかり写真を撮っている。そして麻原が写ったポスターが区内のいたるところに貼られ、中野サンプラザ(当時)始め、都内各地のコンサートホールで「麻原彰晃アストラル・コンサート」と銘打った、小学生の学芸会レベルの音楽会を開催しだしたのである。
このけったいな集団の正体は何や? 首魁の麻原彰晃とはいったい何者や? と最初はキワモノ扱いの取材対象としか見ていなかった。そのアストラル・コンサートとやらにも足しげく通ったものの、麻原は姿を現すことがなかった。
そこで当時静岡県富士宮市にあったオウムの総本部まで単身、自家用車で取材に出かけることにした。当時在籍していた週刊文春グラビア班の仕事として、でなく、単なる興味本位と、やはり拙宅のまわりに集まりだした連中とその首魁に怪しいものを感じたからである。総本部が遠くから見渡せるお好み焼き屋の駐車場で張り込みを始め数日たった昼前、総本部前近くにタクシーが止まり、人だかりが見えた。なにかあると、カメラをひっつかんで、近づく。
そのうちの一人に名刺を差し出すや、「横浜弁護士会」の弁護士と身分を明かされた。なぜ横浜の弁護士が富士宮に、その来意を尋ねるも、言葉をにごすばかり。やがてタクシーでそのままどこぞに消えられた。
狐につままれたように、そのまま暗くなるまで張り込みつづけ、夕方編集部にその旨、連絡をいれ、なにか情報はないかと尋ねるや、在席していたデスク(当時)が血相変え、いや、声色が変わり、ただちにその場から離れ、まっすぐ東京に帰るよう指示された。
消えた坂本弁護士一家、残されたオウムのバッジ
編集部でデスクから渡された夕刊には横浜の坂本弁護士一家3人全員がなぜか布団とともに消え去ったこと、現場には血痕と宗教団体のバッジが残されていた、としか書かれていなかったが、デスクからは、そのバッジがオウム真理教の“プルシャ”と呼ばれるものであること、坂本弁護士がオウム真理教のインチキぶりやその被害の非道さを世間に訴えるためにも訴訟を準備していたことを知らされた。
そこまで分って、デスクからオウム取材へのゴーサインがでた。オウム真理教の施設はどこも刑務所のような高い塀に覆われていたため、昭和天皇崩御の取材の際に二重橋前広場で使用した高さ4mの巨大脚立や、それを富士宮まで運び込むため2トントラックも必要な事を具申し、取材メンバーもそろい、私とオウムとの最初の対決は1989年11月上旬となった。
私が2トントラックのハンドルを握り、記者を助手席に巨大脚立を荷台に乗せ、早朝、編集部を出発、10時前には富士宮市に到着。あいにくの曇天下だったが、総本部前の空き地にトラックを停め、脚立を2人がかりでかかえ、道路を横断、歩道で脚立を組み立て、記者に足場を押さえてもらい、私が登り、天板に腰掛けて、目を凝らした。総本部のなかからオウム服を着た若い信者が2、3人出てきたが遠巻きにこちらを眺めているだけであった。
しかし、総本部の中はまさにゴミため状態、乱雑にそこかしこに、鉄パイプ等金属部品や古タイヤなどが積み上げられ、バールを抱えた信者らしき若者1人がウロウロしているだけであった。このどこかに坂本弁護士一家が囚われているかもしれぬと目をこらすものの、見当たらず、早々に現場をあとにした。ここで張り込みを続けていた時も教団内部から漂うオウムの異様な雰囲気を察知し、とんでもないトラブルに巻き込まれるかと不安であったが、なんだか拍子抜けしたようであった。
編集部に帰り、フィルムを現像、プリントをあげたが、デスクは不満げであった。写真だけ見ると単なるごみ集積場である。晴れていれば背景には富士山が見えるはずだったがそれも厚い雲に隠れて見えない。ページタイトルを「富士山麓にオウム鳴く」と考えていたデスクから次の日も再撮を指示され、翌日また早朝富士宮に向かうこととなった。今度は同僚だが年上のMカメラマンとである。
昨日と全く同じように総本部前の空き地にトラックを停め、2人がかりで脚立をかかえて道路を渡り、歩道に脚立を組み立て始めたときである。
眼に狂気を宿した信者たちに取り囲まれて
この日は20人くらいの集団が総本部からいきなり飛び出してきて我々はあっという間に眼に狂気を宿した信者らに取り囲まれ、脚立に至ってはオウム真理教の信者がよじ登り占拠されてしまった。集団は大声でわめきつづけ、私の顔やレンタカーのナンバーや脚立に書かれた「文藝春秋」の社名などにも、そんなに近づけたら写らんのにというレンズをドアップで近づけてくる。
まあ威嚇のつもりであろう。そのなかでひときわ凶暴だったのがスキンヘッドで鋭い目つきの新實(にいみ)智光とざんばら髪の岡崎一明であった。岡崎は当時は佐伯姓であったが、のちに麻原をゆするほどの大悪党になり、新實は後にオウム真理教の疑似国家の自治大臣となり、凶悪事件のほとんどの実行犯になった。このとき私が総本部内に拉致されていれば二度と生きて外に出られなかったであろう。
私もただカメラマンの本能のおもむくままこの狂気にレンズを向けるしかなかった。信者が私のカメラを取り上げようと飛び掛かってくる。今思えばひときわ目立つ髪の長い女性は(オウム真理教の)大蔵大臣でもあり、麻原の愛人でもあったケイマこと石井久子であった。新實が強がってか、余裕を見せてるつもりか、レンズにむかって両手でピースサインをかましてきてせせら笑う。
脚立やレンタカーを占拠され、狂気の表情から危険を察知し、もはや取材続行は不可能と判断。「Mさん、110番や。お好み焼き屋の駐車場の公衆電話! 早く!」スマホなんぞ夢にも見なかった36年前のことである。当時の富士宮周辺は携帯電話の電波も通じていなかった。
岡崎や新實の常軌を逸した怒り、信者の人波が割れて現れたのは…
「こちらも110番だ!」新實も素早く反応するが、駐車場まで駆けつけるこちらより、総本部内に駆け込むオウムの方がいち早く警察につながったようであった。信者に私が小突き回されている間にも、そこらへんで隠れて見ていたんちゃうかというくらい、アッという間に白黒パトカーに捜査車両まで駆けつけてきたかと思うたら、中から飛び出た捜査員らはカメラを構え我々でなく、新實や岡崎ら信者にレンズを向けて写真を撮り始めたのである。
それが岡崎や新實の怒りの火に油を注ぐことになった。捜査員に飛び掛からんばかりのその怒りぶりはまさに常軌を逸していた。我々はそこから避難するようにパトカー車内に押し込まれた直後、あたかも映画「十戒」のモーゼが紅海を渡るシーンのように信者の人波が割れた。
あたりは一瞬で静まり返り、真ん中を一人の男が歩いて出てきた。
「刑事課長さんはいますか?」妙な訛りのある声を張り上げた。信者たちが雷に打たれたように硬直しているが、悪夢をみているように眺めるしかなかった。それが戦後最悪の犯罪者・麻原彰晃と私の初対面であった。
写真=宮嶋茂樹
〈麻原彰晃の血を信者に飲ませ、風呂の残り湯を販売、毒ガスと合成麻薬を密造し果ては軍用ヘリ購入まで…オウム真理教の暴走が止まらなくなった“決定的理由”〉へ続く
(宮嶋 茂樹)
