【社会】座布団投げの起源は江戸時代? 「相撲見物」の文化はどうやって生まれたのか
【社会】座布団投げの起源は江戸時代? 「相撲見物」の文化はどうやって生まれたのか
相撲は日本の国民的なスポーツであり、今もなお人気を博しています。
そんな相撲ですが、もちろん江戸の庶民も相撲見物を楽しんでいました。
果たして江戸時代の相撲見物はどのようなものだったのでしょうか?
この記事では相撲小屋はどのような環境になっていたのか、江戸の庶民がどのように相撲見物を楽しんでいたか、どれくらいの費用が必要だったのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、谷釜尋徳(2014)スポーツ健康科学紀要11号p.55-77に詳細が書かれています。
目次
- 祭りのような賑わいを見せていた相撲小屋
- 土俵にかぶりつく観客、中には力士に酒を振舞うものも
- 高嶺の花ではあったものの、決して手の届かない娯楽ではなかった相撲見物
祭りのような賑わいを見せていた相撲小屋

江戸時代の大相撲は勧進相撲という名目で行われており、あくまで寺社が資金を調達するための興行という名目でした。
当初幕府は浪人集団との結びつきが強いという理由で、勧進相撲を規制しようとしていたのです。
しかし1657年、明暦の大火が発生すると状況は一変します。
火事によって多くの寺社が全焼したことにより、寺社の再建を行う必要に駆られました。
それでもなかなか勧進相撲の許可は下りず、1684年にようやく勧進相撲に興業が許可されたのです。
当初は興行の舞台となる場所は江戸中の神社や寺社であり、場所も時期も不定期で行われていました。
しかし18世紀半ばに季節ごとに年4回に固定されるようになり、場所も徐々に回向院(東京都墨田区)に定着するようになっていったのです。
その理由を紐解けば、両国橋という“動脈”に通じる立地が、回向院の選定を決定づけました。
というのも回向院は江戸市中のどこからでも足を運びやすい絶好のロケーションに位置します。
天保年間(1831年から1845年)の記録によれば、両国橋を行き交う人々は日に20,000人を超えたとのこと。
この絶え間ない人の流れが、勧進相撲の観客動員に寄与したことは想像に難くないでしょう。
さらに、回向院の境内に仮設された相撲小屋の存在もまた、興行成功の鍵でした。
この仮設小屋は、興行ごとに寺社奉行に申請され、その都度建てられては解体されたのです。
その規模は間口18間(約32.4メートル)、奥行20間(約36メートル)という堂々たるもの。
江戸の相撲ファンたちは、この簡易ながらも計算し尽くされた空間に集い、歓声を上げました。
興行当日の賑わいは、まるで祭りのようだったと想像されます。
広場には茶屋が立ち並び、観客たちは相撲の合間に一服の茶を楽しんだことでしょう。
山門をくぐれば、右手にそびえる幟と土俵の櫓。近世の浮世絵には、その風景がありありと描かれ、当時の熱気を伝えてくれます。
こうして、回向院は単なる興行の場ではなく、江戸の文化の一端を支える存在となりました。
隅田川の風がそよぐ中、両国橋を渡る庶民たちの喧噪とともに、回向院の土俵は江戸の夢を映し続けたのです。
土俵にかぶりつく観客、中には力士に酒を振舞うものも

それでは江戸の庶民は勧進相撲をどう楽しんだのでしょうか。
その情景を少し覗いてみましょう。
幕内力士たちの取り組みが行われる両国の桟敷席。
早朝の太鼓の音が相撲観戦の幕開けを告げると、観客は早々に寝床で軽く腹を満たし、会場へと急ぎます。
そして、勝負が始まれば、声援は止まることを知らず、土俵にかぶりつきで力士の動きを追うのです。
勝敗が決まれば、割れんばかりの歓声が飛び交います。
特筆すべきは、応援の熱が物理的にも表現される「投げ纒頭」という習慣。
応援する力士が勝つと、観客は手元の着物やタバコ入れを土俵へ投げ入れます。
勢い余って周囲の人の着物を引き剥がし、それさえも投げ込む者もいたほどです。
これらの品は呼び出しが拾い、力士のもとへ届けられ、投げ主には感謝のしるしとして祝儀が返されるという粋なやりとりが存在しました。
また、桟敷席の特権として、富裕層の観客が自ら応援する力士を招き、酒食を振る舞うという宴も行われていた様子が浮かび上がります。
酒杯を交わす力士と観客、その賑わいは江戸の繁栄を映し出す一幕でもありました。
一方で、相撲熱は桟敷席に限らず、庶民の間でも高まっていきます。
特に江戸時代後期には、裕福な町人が力士を自ら召し抱える例が増加したのです。
これを幕府が禁じる通達を出すほどでした。禁令が出されるほど熱中した江戸の人々。
その熱狂は、相撲という娯楽を単なる観戦の枠を超え、コミュニティや文化を育む場へと押し上げたようです。
このようなこともあって、相撲は現代まで国民的なスポーツとして残り続けました。
高嶺の花ではあったものの、決して手の届かない娯楽ではなかった相撲見物

このように江戸の庶民が相撲を観戦するというのは、単なる娯楽というよりも一大イベントだったようです。
それでは相撲見物には、どれくらいの費用がかかったのでしょうか。
『文政年間漫録』を参考にすると、例えば、野菜を売る棒手振の日収は約400文(1文=32.5円とした場合、13,000円程度。なお江戸時代と現代では物の価値が大きく異なっており、単純に比較することが難しいので注意する必要がある)。
これに対して、毎日の支出である米代や味噌代、子供のお菓子代を差し引くと、残るのは100〜200文(3250~6500円)程度です。
さらに、雨の日には商売ができないことも考えると、この収入は実に不安定です。
一方で、大工のような職人はやや安定しており、日収は540文(17,550円)ほど。
しかし、家賃や食費、薪代などを支払った後に残る金額は棒手振とさほど変わらず、やはり100文程度です。
桟敷席の見物料は、当時の記録を元に4000文(130,000円)程度と推測されています。
これを一人で支払うとなると、中下層の庶民にとっては約40日分の余剰金をため込む必要があり、到底手軽な娯楽とは言えません。
しかし、桟敷席は一間ごとの価格設定であったため、例えば8人で費用を分担すれば一人あたり500文(16,250円)です。
これでも5日分の余剰金が必要であり、やはり高嶺の花であったことは否めませんが、決して庶民にも手が届かないものではなかったことが窺えます。
そうした状況を背景に、庶民はどうにかして相撲見物を楽しもうと工夫を凝らしたことでしょう。
これが単なる費用の問題ではなく、江戸っ子の心意気や人々の付き合いをも巻き込んだ「特別な一日」を生み出したことは容易に想像できます。
東洋大学学術情報リポジトリ
https://ift.tt/0lnTaoHrecords/6852
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
ナゾロジー 編集部
