【社会】だから国民の「愛子天皇待望論」はここまで高まった…専門家が指摘する”愛子さま人気”だけではない理由
【社会】だから国民の「愛子天皇待望論」はここまで高まった…専門家が指摘する”愛子さま人気”だけではない理由
■宮中晩餐会デビューした愛子内親王
愛子内親王がさまざまな公務に携わる姿が頻繁(ひんぱん)に報道されるようになってきた。
3月25日には、国賓として来日したブラジルのルーラ大統領夫妻らを招いて、皇居の宮殿で宮中晩餐会が開かれたが、それが愛子内親王にとっては晩餐会デビューとなった。右隣にはブラジル国会の下院議長が座り、内親王は議長となごやかに懇談したと伝えられている。
こうした形で愛子内親王についての報道が増えていくにつれて、「愛子天皇待望論」が今まで以上に熱く唱えられる勢いになっている。
もちろん、現在の皇室典範の規定によれば、女性皇族が天皇に即位することはあり得ない。男系男子と定められているからである。
しかし、「愛子天皇待望論」が唱えられる背景には、いったんは女性天皇、さらには女系天皇が容認される出来事がすでに起きたことにその基盤があるのではないだろうか。今回は、そのことについて考えてみることにする。
■雅子皇太子妃と愛子内親王の誕生
現在の天皇と雅子皇后が結婚したのは1993年6月9日のことだった。それは、現在の上皇と美智子上皇后の「ご成婚」の再来として多くの注目を集めた。成婚パレードには19万人の人出があり、テレビ中継の最高視聴率はNHKと民放をあわせて77.9パーセントにも達した。
すでに株価や地価の下落という事態は起こっていたものの、まだ「バブル」の雰囲気が当時の日本社会には色濃く漂っていた。そうした社会のありようが、新たな皇太子妃の登場を国民全体が歓迎する空気に結びつけたように思われる。
ただ、皇太子夫妻は結婚後、なかなか子どもに恵まれなかった。1999年12月には、朝日新聞が懐妊をスクープしたものの、流産という結果になった。
新たな懐妊が発表されたのは2001年4月になってからのことで(正式発表は5月15日)、愛子内親王が誕生したのは同年12月1日のことだった。
秋篠宮家には、それまでに眞子・佳子内親王が生まれていた。ところが男子は生まれておらず、皇族においては秋篠宮文仁親王が1965年に生まれて以降、愛子内親王で9人連続女子の誕生が続いたことになる。
■女性天皇を容認する発言が相次ぐ状況
しかも、愛子内親王が誕生してからすぐの12月9日に、雅子皇太子妃は38歳の誕生日を迎えた。果たして第2子の出産はあり得るのか。たとえ、それがかなったとしても、男子の親王が生まれる保証はない。
そういう状況のなか、愛子内親王の誕生直後に、政治家からは女性天皇を容認する発言が相次いだ。自民党の野中広務元幹事長は、テレビの報道番組で「日本は男女共同参画社会を目指しており外国にも(女帝の)例がある。改正は当然あっていい」と、皇室典範を改正し、女性天皇を認める必要があることを示唆した。
当時の福田康夫内閣官房長官も、女性天皇を肯定する発言を行い、小泉純一郎首相も「女帝を否定する人は少ない」と発言した。野党だった民主党の菅直人幹事長や自由党の小沢一郎党首も同様に、女性天皇を認める発言を、この時期行っている。同年末に行われた世論調査でも、女性天皇に道を開くことに「賛成」が過半数を占め、「反対」が初めて1割を切るという結果が報道された。
■「女性・女系天皇」への方向性を示した有識者会議
愛子内親王の誕生後、さらに親王の誕生が期待された。だがそれは、雅子皇太子妃に対して大きな負担を負わせることに結びついていく。やがて皇太子妃は、2003年12月に40歳を迎えた。もちろん、その年齢で子どもを生むことはいくらでもあるわけだが、年齢を重ねることで、その可能性が低くなったことも事実である。
そうした状況のなか、小泉首相は2004年12月27日、「皇室典範に関する有識者会議」という私的諮問(しもん)機関を設置した。座長には吉川弘之元東京大学総長が選ばれ、法律、政治学、歴史学、経済学などの分野から10名の専門家が委員としてこの会議に参加した。
約1年をかけて審議を行った結果、有識者会議は2005年11月24日に最終報告書を小泉首相に提出している。この報告書では、女性天皇、さらには女系天皇を容認する方向性が打ち出された。皇位継承者を男系男子に限る現行の皇室典範の規定では、将来において継承者が「不在」となる恐れがあり、それを女子や女系の皇族に拡大することで、戦後の象徴天皇制を安定的に維持する必要がある――このように結論づけられたのである。
■注目された皇族それぞれの意見表明
そして、皇位継承順位については、男女を問わず第1子を優先とする「長子優先」の制度が適当であると提言された。愛子内親王は、皇太子夫妻の長子である。
こうした問題に対して皇族が発言をすることは差し控えるべきだとされてきた。しかし、現在の上皇の従兄弟にあたる三笠宮寛仁親王は、女系天皇に反対する考えを表明し、男系継承の維持を主張した。寛仁親王はかつて社会活動に専念するために皇籍を離脱したいと意思表明したことがあり、大胆な発言をすることで知られていた。
他方、有識者会議の報告書以前のことになるが、高松宮喜久子妃は愛子内親王の誕生後、雑誌『婦人公論』(2002年1月22日号)への寄稿で「女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」と述べていた。
■皇室のイメージを変えた女性皇族の存在感
皇族は、こうした問題に対してセンシティブにならざるを得ないわけだが、国民は違う。この時期の世論調査では、女性天皇を容認する意見が高い支持を得ており、愛子内親王の誕生はそれに拍車をかけた。
おそらく、このことについて、「容認」ということばを使うのは、事態を正しくとらえたことにはならないはずだ。
むしろ国民は、愛子天皇が誕生することを強く願った。男性よりも女性のほうが天皇にふさわしい。そのように考えた国民も少なくなかったことだろう。
そこには、戦後における女性皇族の活躍ということが大きく影響していた。戦前には、皇后をはじめ、女性皇族が国民の前に姿を現す機会は限られていた。
戦後、昭和天皇は全国を巡幸したが、ほとんどは単独でのものだった。香淳皇后が同伴したのは1947年の栃木県行幸と54年の北海道行幸のたった2回だけだった。昭和天皇が、すべての都道府県に行幸したのとは対照的である。
それが、美智子妃が誕生したことで一変する。皇太子の時代も、天皇の時代も、つねに美智子妃が同伴していた。その伝統は、雅子妃にも受け継がれた。皇室のイメージをアップさせる上で、女性皇族の果たした役割は限りなく大きい。
そのことが、愛子天皇を待望する国民の声に結びついた。愛子内親王は、美智子上皇后の孫であり、雅子皇后の娘である。国民は、愛子内親王のなかに、民間から嫁いだ二人の女性の姿を見ている。
■女性天皇誕生を阻んだ新たな懐妊報道
小泉首相は、2006年2月10日に召集される通常国会において皇室典範改正案を成立させる方針を固めていた。
ただ、男系での継承の維持を主張する保守派からの反対の声は大きく、小泉内閣は窮地(きゅうち)に立たされていた。私はその当時、東大の先端科学技術研究センターの特任研究員をしており、政治学者の御厨貴(みくりやたかし)氏の研究室に所属していたが、御厨氏とそのことについて話し合った記憶がある。小泉内閣はかなり危ないのではないかというわけである。
ある意味、そこで小泉内閣を救ったのが、秋篠宮の紀子妃懐妊という報道だった。通常国会が開かれる直前の2月7日午後2時過ぎ、NHKの速報としてそれが伝えられた。宮内庁長官は、その日の夜の記者会見で、出産予定日は9月末ごろになると発表した。
もちろん、その時点で、親王が生まれると決まったわけではなかった。しかし、皇室典範改正の動きは止まり、小泉首相も皇室典範の改正案を国会に提出することを見送り、事態を見守る姿勢を示した。
かくして悠仁親王が誕生し、皇室典範を改正する動きは途絶える。それによって、愛子天皇が誕生する可能性は、いったんは完全に潰(つい)えたのである。
■選択肢を広げることが唯一の解決策
しかし、愛子内親王が誕生した2001年から、悠仁親王が誕生する2006年までの間、皇位継承資格者の確保をめぐって活発な議論が展開され、愛子天皇を待望する声が高まったことは事実である。そのときのことが記憶され、現在の「愛子天皇待望論」に結びついているのではないだろうか。そうしたことについては、近々刊行する拙著『日本人にとって皇室とは何か』で詳述したので、興味のある方には是非読んでもらいたい。
日本国民は、一度は、現代において女性天皇が誕生し、皇位が女性によって継承されることでいっこうに構わないと考えた。逆に、一般国民のなかに、それに反対する者は少なかった。国民の多くは、男系男子での継承にこだわる保守派ではないからである。
皇位継承の安定化を図ろうとしても、妙案は浮かんでこない。その際には、選択肢を広げることが、ただ一つの解決策になる。
悠仁親王が将来において結婚し、その家庭に男の子が生まれるかもしれないが、少なくとも女性天皇に道が開かれるよう、皇室典範を改正しておくことも必要ではないだろうか。日本の国家もかつてはその方向に踏み出したわけだから、それは決して不可能なことではないのである。
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宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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