【社会】新聞・テレビはいつまで「偽りの中立」を続けるのか…「報道の自由」を自ら手放したマスコミの末路

【社会】新聞・テレビはいつまで「偽りの中立」を続けるのか…「報道の自由」を自ら手放したマスコミの末路

このブログ記事は、メディアの中立性について非常に重要な視点を提供しています。特に、報道機関が情報を選別し、特定の観点に偏った報道を行うことで、視聴者や読者に誤ったメッセージを伝えてしまうリスクについて触れています。この問題は、報道の自由が脅かされるだけでなく、市民社会の健全性にも深刻な影響を及ぼすため、私たち全員が関心を持つべきテーマです。

政治をめぐるマスコミの報道姿勢に疑問の目が向けられている。戦史・紛争史研究家の山崎雅弘さんは「本来、ジャーナリズムは『公正に対する中立』をとるべきなのに、大手メディアは対立する双方の問題点を等しく指摘するという『偽の中立』を取っている」という――。

※本稿は、山崎雅弘『底が抜けた国 自浄能力を失った日本は再生できるのか?』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

■自浄作用で不可欠な司法検察と報道機関

ある国で政治腐敗が進行した時、一定の健全さを保つ民主主義国では、社会的な自浄作用が働いて、腐敗の根源である権力者が失脚し、政治腐敗に歯止めがかかります。

その自浄作用で特に重要な役割を担うのが、司法検察とジャーナリズムです。

権力者の不正や汚職、人道的犯罪などが発覚した時、検察は時の権力に従属しない独立した立場で調査と分析を行い、法律に違反している事実が確認されれば、相手が誰であっても起訴して、法の裁きを受けさせます。これが大原則です。

そして大手新聞とテレビ、ラジオなどのマスメディアも、野党や検察とは別の、時の権力に従属しない独立した立場で調査と分析を行い、法律に違反している疑いが確認されれば、相手が誰であっても批判的に追及して、民主主義国では主権者とされる国民の「知る権利」に応える報道を行います。それが、いわゆるジャーナリズムです。

■「公益」より「私益」を優先していないか

検察とジャーナリズムは、特定の権力者やその取り巻きの「私益」ではなく、国民全体の利益、つまり「公益」を念頭に置いて、職務を行っています。

倫理の「底が抜けていない」民主主義国では、これが当たり前の光景です。

しかし、現在の日本では検察による自浄作用はその機能を大きく失っているように見えます。そして、もう一つの柱であるジャーナリズムについても、現在の日本では社会的な自浄作用に貢献しているようには見えません。

どちらも、国民全体の利益という「公益」ではなく、特定の権力者やその取り巻きに奉仕し、自分たちも見返りの利益を得るという「私益」を優先しているように思えます。

そんな疑念を抱かせる理由の一つが、大手メディアの「偽りの中立的立場」です。

■ジャーナリズムに求められる中立的行動

与党と野党の中間に立ち、どちらの陣営にも与(くみ)しない立場で双方を等しく監視する。

政権与党や現職の都道府県知事だけが不利になるような、一方的な批判は「控える」。

一見すると、こうした「中立的立場」はバランスのとれた姿勢で、良識的な態度であるかのような印象を受けます。対立する双方の意見に耳を傾け、「与党のやり方にも問題はあるが、野党の側にも問題がある」という風に、双方の問題点を等しく指摘するという態度は、形式的には「バランスのとれた中立であるかのように見える」からです。

しかし、これは大きな間違いです。

なぜなら、政権与党や現職知事などは、国民や市民の生活を大きく左右できる「権力」を持っており、その大きな力をどう使っているかをジャーナリズムが厳しく監視することこそ、社会全体のバランスを均衡させるために必要な「中立的行動」だからです。

司法や検察に求められる中立が「法理に対する中立」であるのと同様、ジャーナリズムに求められる中立とは「公正(フェアネス)に対する中立」です。

■大手メディアの判断基準はズレている

権力を持つ与党や現職知事と、権力を持たない野党や批判的な市民の「ちょうど中間に立って双方の問題を指摘すること」が中立ではなく、誰が政権与党や知事になっても、等しく「権力に批判的な監視の目を向ける」ことが「公正に対する中立」です。

例えば、図表1を見てください。

この図で説明すると、大きな力を持つ側のA(政権与党や現職知事、大企業など)が、中間にある破線(法律など)を越えてはみ出し、力を持たない側のBを圧迫・抑圧するような事態が起きている時、ジャーナリズムがとるべき「公正に対する中立」とは、「Aは越えてはならない一線を越えてBの存在を圧迫し、Bの権利を侵害している。ただちにAは一線の右側まで戻らなくてはならない」と厳しく批判することです。

この態度は、Aが誰であっても等しく行うことによって「真の中立」となります。

けれども、現在の日本で大手メディアがやっていることは、中央の破線を踏み越えて横暴に振る舞うAと、それに蹂躙(じゅうりん)されるBの「ちょうど中間」に立って「AとBの双方の意見に公平に耳を傾けて、どちらの側にも与しない」という態度です(丸の点線)。

これは、図を見れば誰でも気づくように、中立に見せかけた「偽の中立」です。

■なぜ汚職を「政治とカネ」と言い換えたのか

こうした「偽の中立」という不誠実なスタンスに加えて、政治報道における言葉の使い方も、日本では年々、国民に対して不誠実になっているように感じます。

私が子どもの頃、つまり1970年代後半から1980年代前半には、政治家の私利私欲に絡む不正事件が発覚すれば、「汚職」という言葉が使われていた記憶があります。

新村出編『広辞苑』第七版(岩波書店)によれば、「汚職」という日本語の意味は、次のようなものでした。

「職権や地位を濫用して、賄賂を取るなどの不正な行為をすること。職をけがすこと」(p.414)

文字を見ればわかるように、汚職とは簡潔明瞭に問題の悪質さを示す言葉で、公職を汚す行いをした政治家は、即座に退場(役職辞任や議員辞職)するのが常でした。

■汚職政治家たちが払った重い代償

例えば、1988年に発覚した「リクルート事件(高値が見込まれる未上場の不動産会社の未公開株が賄賂として自民党などの政治家に贈られた事件)」では、当時の竹下登首相や中曽根康弘元首相、安倍晋太郎自民党幹事長を含め大勢の自民党議員が未公開株の譲渡を受けていた事実が判明し、竹下内閣は総辞職に追い込まれました。

また、1992年に発覚した「東京佐川急便事件(首相となる前の竹下登が東京佐川急便社長の仲介で暴力団と繫がりを持った事件)」でも、東京佐川急便から五億円の政治献金を受けていた自民党副総裁の金丸信が、国会議員を辞職し、のちに逮捕されました。

このように、長く続いた自民党政権下でも、汚職の事実が確認されれば厳しい批判を受けて居場所がなくなり、政治家としての生命を断たれる場合が少なくありませんでした。

中には、田中角栄のように、「ロッキード事件(1976年に発覚した、米航空機会社ロッキードの旅客機受注をめぐる贈収賄事件)」で5億円の受託収賄罪などで逮捕された後も、地元選挙区への利益誘導が評価されたのか、その後も5回の衆院選で勝ち続けて国会議員の地位を保った例もありますが、多くの「汚職」案件は検察とジャーナリズムの「十字砲火」(異なる角度からの射撃で死角をなくす戦法の軍事用語)により、辞職や逮捕という「物の道理にかなった結末」を迎えていました。

■犯罪性や悪質性が隠されてしまった

けれども、日本のメディアではいつ頃からか、この「汚職」という言葉が使われなくなりました。その代わりに、新聞やテレビの政治報道記者が、何かの協定でも結んだかのように横並びで使い始めた言葉があります。

それが「政治とカネ」です。

この「政治とカネ」という言葉には、「汚職」という言葉が持っていた、公益を害するという問題の悪質さを示す明瞭な「意味」が含まれていません。聞けば聞くほど、意味不明に思える漠然とした言葉です。

例えば、日本語の「汚職」に対応する英語は「corruption」という、贈収賄などの地位や職権を悪用した不正行為を指す言葉ですが、最近のメディアが使う「政治とカネ」をそのまま英語に訳しても、「politics and money」で、外国人が見ても「corruption」と同種の犯罪性や悪質性を読み取ることはないでしょう。

つまり、日本のメディアで常態化した「政治とカネ」という言葉は、地位や職権を悪用した不正行為の犯罪性や悪質性を消し去る効果を持つ、欺瞞(ぎまん)的な印象操作なのです。

■「報道の自由度ランキング」は低空飛行

2012年に自民党の第二次安倍政権が始まってから、日本社会にはさまざまな変化が生じましたが、その中でも特に重要と考えられるのは、政治報道の現場から「ジャーナリズム」が消え、政府発表をそのまま伝達拡散する「政府広報」のような「ニュース」ばかりが、政治報道の体裁をとってなされるようになったことです。

フランスに拠点を置く国際的なジャーナリズムの組織「国境なき記者団RSF)」が毎年発表する「報道の自由度ランキング(プレス・フリーダム・インデックス)」と呼ばれる格付けで、「報道の自由度」における日本の順位が、第二次安倍政権以降の自民党政権下でずっと下位に低迷している事実からも、そのことがわかります。

この格付けは、同組織に所属するジャーナリストたちが各国の政治的条件や経済状況、法的枠組み、社会文化、安全性の五項目を総合的に評価して、国ごとの順位を国際社会に提示しているものです。

2002年に初めて「報道の自由度ランキング」が公表された時、日本(第一次小泉内閣)の順位は、26位でした。しかし、22年後の2024年の同ランキングにおける日本の順位は70位で、2023年は68位、2022年は71位でした。

■最高位は民主党政権下の11位だった

ちなみに、2024年の1位はノルウェーで、2位はデンマーク、3位はスウェーデンと北欧の国がトップ3で、日本より上の69位はアフリカコンゴ、68位は東カリブ諸国機構、67位はハンガリーでした。アメリカは55位、イタリアは46位、イギリスは23位、フランスは21位、ドイツは10 位でした。

民主党政権時代には、日本の順位は一時的に上昇し、鳩山由紀夫内閣の2010年には11位という比較的高位にランクされました。菅直人内閣の2011年も22位で、民主党政権下の日本では、報道の自由はおおむね機能していると評価されていたようです。

しかし、第二次安倍政権がスタートした直後の2013年には、53位と大きく順位が下落して、2014年は59位、2015年は61位、2016年と2017年には72位と、低迷を続けます。

首相が菅義偉岸田文雄に代わっても、順位は60位代後半と70位代前半を行き来し、2013年から2024年までの自民党政権12年間の平均順位は、66位でした。「報道の自由度」という面で、民主党政権時代から大きく後退した状況です。

■政府や企業、記者クラブの圧力による自己検閲

同記者団の公式サイトを見ると、各国の状況や問題点についての指摘がなされていますが、そこに書かれている日本の報道分野での問題は、次のようなものでした。

「日本は議会制民主主義の国であり、一般的にはメディアの自由と多元主義が尊重されます。しかし旧来の利害関係やビジネス上の利害関係、政治的圧力、男女の不平等により、ジャーナリストが監視者としての役割を完全に果たせないことがよくあります」

「2012年に右派の国粋主義(安倍政権)が台頭して以来、ジャーナリストたちは彼らに向けられる敵意を帯びた不信感について不満を述べてきました。記者クラブ制度は、既存の報道機関のみに記者会見や政府高官へのアクセスを許可し、記者に自己検閲(セルフ・センサーシップ)を促すもので、フリーランスや外国人記者に対するあからさまな差別となっています」

「日本では、政府や企業が日常的に主流メディアの経営に圧力をかけており、その結果、汚職、セクシャル・ハラスメント(セクハラ)、健康問題、環境汚染など、デリケートと見なされる可能性のあるテーマについては、厳しい自己検閲が行われています」

■大日本帝国時代の反省が忘れられてしまった

奇妙なのは、第二次安倍政権以降の自民党政権下では、日本の「報道の自由度ランキング」がずっと低迷したままなのに、当事者であるメディア業界、とりわけ大手新聞各社と大手テレビ各局、NHKの社員たちが大した問題意識も危機感も持たず、まるで他人ごとのように軽く扱っていることです。

戦前から戦中にかけての昭和の大日本帝国時代、当時の大手メディアだった新聞各紙とNHKラジオは、実質的に政府と軍部に阿諛追従(あゆついしょう)する姿勢をとり、1937年7月の日中戦争勃発から1945年8月の無条件降伏受諾(正式な降伏文書への調印は9月2日)までの8年間、政府と軍部の戦争遂行を批判することはありませんでした。

戦後、朝日新聞をはじめとする日本の大手メディアは、先の戦争への加担と国民に対する戦争扇動を反省し、政府への阿諛追従ではなく、批判的思考に基づく権力監視のジャーナリズムを、欧米の民主主義国にならって行ってきたはずでした。

しかし、2012年12月に自民党が政権を奪回し、第二次安倍政権が発足して以降、日本の大手メディア各社では、戦前や戦中の反省もいつしか忘れられてしまったようです。

こうして日本は、新聞社やテレビ局の社員である政治記者の「自己検閲」などにより、「報道の自由の底」が抜けた国になってしまいました。

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山崎 雅弘(やまざき・まさひろ)
戦史・紛争史研究家
1967年大阪府生まれ。軍事面に加えて政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争を分析・執筆。同様の手法で現代日本の政治問題を分析する原稿を、新聞、雑誌、ネット媒体に寄稿。著書に『[新版]中東戦争全史』『1937年の日本人』『中国共産党と人民解放軍』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦』『沈黙の子どもたち』など多数。

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※写真はイメージです – 写真=iStock.com/microgen

(出典 news.nicovideo.jp)

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